ワーキングメモリの重要論文をざっくり概説。
今回はMongillo and TsodyksのScience (2008)論文を紹介する。
コンピュータ上で仮想ニューロンを10000個作成し、その挙動からワーキングメモリ保持のメカニズムを検討した論文。
要するに、Spiking neural network (SNN) によるワーキングメモリ研究である。
引用数は1000を超えており非常に影響力のある論文となっている。
背景と目的
1990年ごろから、ワーキングメモリ保持はニューロン群の持続発火によって保持されるという考えが主流であった。しかし、2000年ごろからこれを否定するような実験結果が報告されるようになった。例えば、ワーキングメモリ情報は持続発火が失われた後も想起されうるという結果はワーキングメモリの持続発火説を真っ向から否定する結果である。また、持続発火はエネルギー効率が非常に悪く非現実的であるとの指摘もある。そこで、代替のメカニズムとして「ワーキングメモリはシナプスの短期的促通によって保持されうる」という仮説が提唱されるようになった。シナプスの短期的促通は、ここではニューロンが発火した後にシナプス間にカルシウムイオンが残留することを指す。ニューロンの発火後、カルシウムイオンは数秒間残留しニューロンが再度発火しやすい(促通された)状態が維持される。これによって、ワーキングメモリ情報が保持されるというのが、上記の仮説である。この研究は、コンピュータシミュレーションを用いてこの仮説を検討したものである。
手法
コンピュータ上で仮想ニューロンを10000個作成し、その挙動を検討した(要はSpiking neural network, SNNによるシミュレーション)。大雑把には、8000の興奮性ニューロンと2000の抑制性ニューロンをIntegrate and fireモデル(シミュレーションに使用されるニューロンモデルの一種)で作成。ここにシナプス促通を模したパラメータを導入し、仮想的なワーキングメモリ課題を実行させた。
結果
結論から言えば「ワーキングメモリはシナプスの短期的促通によって保持されうる」という仮説が支持された。一旦シミュレーション上のニューロン群に情報をインプットすると、数秒間何ら持続的な神経活動が見られずとも、再度その情報を活性化させることが可能であることが示された。これは「ワーキングメモリ情報は持続発火がなくとも保持される」ということを支持する重要な結果である。
さらに、興味深いことに背景の神経活動(神経活動のベースライン的なものに当たる?)が高まると、ワーキングメモリ情報は自発的にリズミカルな活性化が見られるようになった。これは5Hz程度のリズムであり、ワーキングメモリ実験中の脳波活動でよく観察されるシータリズムと同じリズムである。さらに背景の神経活動レベルを高めると、それは持続発火に変化することも観測された。
これらの結果は、ワーキングメモリ保持自体は静的なシナプスの短期的促通によって可能であり、持続的な活動を伴わなくても良いことを支持する。加えて、ベースラインの活動量が高まるにつれてその神経表現はリズミカルな神経活動、または持続的発火といった動的なものに変化していくことが示唆された。加えて、この論文ではこのシミュレーション上のニューロン群が一つでなく複数のワーキングメモリ情報を同時に保持することも可能であることも確認している。
考察と私見
重要な結論は「ワーキングメモリ情報は持続活動のない状態であっても、シナプスの短期的促通によって保持されうる」という示唆である。もちろんこの結果はあくまでもシミュレーション上の結果であり、実際の脳が同様なメカニズムを採用しているかは不明である点は注意しなければならない。実際、本研究では「時間と共にワーキングメモリ情報は失われる」ことを前提としているが、この前提が正しくない可能性を指摘する研究もあるなど、不十分な点がある。いずれにしても、シナプスの短期的変化が記憶の保持において重要であることは、他の論文においても多く指摘されていることであり、ほぼ間違いないと捉えている研究者が多いと思われる。
脳を外から見る脳イメージングや行動実験だけでは神経活動の詳細な表現については妄想することしかできないのに対し、SNNを用いたシミュレーションではこの点に明確に迫ることができるのが魅力的である。一方、あくまでもシンプルなモデルであるがゆえに、脳波や行動実験の結果とそぐわない部分も少なくないため、今後の発展が楽しみでもある。